旧石器時代
狩りや採集では石をうちくだいた打製石器を使用
新石器時代
野生の小動物を飼う
野生の植物を利用して栽培
道具を磨いて作った磨製石器を使用
縄文時代
縄目の文様(もんよう)縄文土器を使用
人口が増えたのでむらをつくり定住する為に地面に穴を掘り屋根をつける竪穴住居(たてあなじゅうきょ)
弥生時代
中国や朝鮮半島などから北九州へ渡来した人々が稲作を伝える
米の保存や煮炊きに適した縄文土器を使用
青銅器や鉄器も伝わる
鉄器は武器や工具として使用
稲作を多くの人々の共同作業が必要なのでむらをつくり、やがて土地や水の利用をめぐる争いになり周辺のむらをまとめる有力な者によりくに(国)になりました
稲作では木製の鋤(すき)や鍬(くわ)で水田を広げ収穫した稲は石包丁や鉄製の鎌(かま)で穂先をつみ取りました
稲をたくわえる為に高床倉庫(たかゆかそうこ)
豊作を祈る為にまつりが行われ青銅製(せいどうせい)の銅鐸(どうたく)や銅剣(どうけん)・銅鉾(どうほこ)を使用
佐賀県の吉野ケ里遺跡では物見、やぐら、柵も発見されてました
漢の歴史書(後漢書ごかんじょ)には奴国(なこく)現在の福岡市付近の王が漢に使いを送り金印をあたえられた
魏の歴史書(魏志倭人伝ぎしわじんでん)には3世紀に倭(日本)の小さなくにがいっぱいあったが邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)を女王にしたところ争いがおさまった
卑弥呼はまじない(鬼道きどう)によって諸国をおさめ、中国に使者を送り倭王(わおう)の称号を得ました
銅鏡は(どうきょう)は権威を高めるもとして使用
3世紀末になると大和地方(奈良盆地東南部)を中心に前方後円墳の古墳を作り始める
古墳は多くの材料と労力を必要とするので富と権力をもった支配者(豪族ごうぞく)が現れ6世紀までは古墳時代
弥生時代末には鋤や鍬などに鉄の刃先を使用
銅よりも鉄を使用し始め朝鮮半島の百済(ペクチュ・くだら)などとつながりのあったヤマト王権との結びつきを強め始めた
倭と朝鮮半島
高句麗(コグリョ・こうくり)・新羅(シルラ・しらぎ)・百済(ペクチュ・くだら)が強大になり、ヤマト王権は半島南端の加羅(カラ)伽耶(かや)地域とつながりを強め百済と連合して高句麗や新羅と戦う
ヤマト王権は5世紀後半にヤマト王権の王ワカタケルが大王(おおきみ)を名乗る
6世紀になると
渡来人(とらいじん)朝鮮半島や中国から移り住んできた人
蘇我氏(そがし)が勢力を大きくし仏教の導入を始め反対した物部氏(もののべし)を倒して、額田部王女(ぬかたべのおうじょ)=推古天皇(すいこてんのう)をおしたてました
聖徳太子(しょうとくたいし 厩戸王子うまやどのおうじ)は推古天皇の甥であり摂政となりました
冠位十二階の制度・・・大王を中心に有能な人を役人に用いた
十七条憲法・・・役人の心得(仏教や儒教の考えが元になっている
小野妹子(おののいもこ)を遣隋使とし進んだ政治の仕組みや文化を取り入れ隋と対等な国交をめざした
飛鳥時代
大化の改新・・・聖徳太子の死後、曽我氏の力が強くなったので、645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)=天智天皇(てんじてんのう)は中臣鎌足(なかとみのかまたり)=藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と曽我氏を倒し国づくりの改革した
壬申の乱(じんしんのらん)・・・672年に天智天皇の後継ぎをめぐる戦いに勝利した天武天皇が権力を持った
遣唐使(けんとうし)・・・国をおさめる律令国家をつくる為や文化を取り入れる為に8世紀から唐に派遣された
大宝律令(たいほうりつりょう)・・・701年(大宝元年)に天皇を頂点とし太政官(だいじょうかん)が政策を決め、下の八つの省が実施するしくみ(律令国家)
律(刑罰のきまり)・令(政治のきまり)
朝廷・・・役所に役人がおかれ、役所で文書と印による政治
地方は国(くに)・郡(こおり)・里(さと)に分けられ中央から派遣された国司(こくし)や郡司(ぐんし)が里長(さとおさ)を監督した
中央集権・・・全国を統一して支配するしくみ
7世紀初め
中国は隋にかわり唐が大帝国を築く
律令という法律で国をおさめ
祖(そ)・調(ちょう)・庸(よう)という税や労役を課す
租
均田制に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務
庸
律令においては、本来は年間20日の労役の義務があり、それを「正役」と称した
正役を免れるために収める税が庸であったが、唐代中期以後は庸を納めることが一般化した(なお、雑徭2日分が正役1日分と換算されたため、雑徭を年間40日を行った者はその年の正役も庸も免除され、庸を正役20日分納めた者は雑徭も40日分免除された)
正役1日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めること
調
絹2丈と綿3両を収めること